2020.10月
主宰句
糸杉に風見ゆる日や扇置く
観音を恃(じ)す邯鄲の媛のこゑ
色鳥の渡りのころと箸止めし
ましづかな鹿苑へ飛ぶ草の絮
閻王の萩揺れやすし散りやすし
末枯やすばやく外す割烹着
新走りなら近江よと老舟子
床畳に触れたき鉢の仏手柑
秋旱干し釜の尻こちらむく
種ふくべ腰据ゑて風いなしをり
巻頭15句
山尾玉藻推薦
虫干のもう振ることのなき袂 蘭上かず子
をとがひに日の斑張り付く噴井かな 今澤 淑子
鵺塚へ波音寄する旱星 小林 成子
蹲にきてふためける黒揚羽 湯谷 良
杉の穂を拾ふ折目の夏袴 坂口夫佐子
おはぐろの疑宝珠つかんで風遣りぬ 西村 節子
長靴を脱ぐはやくかい心太 鍋谷 史郎
汗の子より逃ぐるよ団子虫の足 山田美恵子
夏安居の雨粒すべる十賊叢 松山 直美
金魚屋のむはつと温き出入口 山路 一夢
ぐらぐらの橋の渡れる泉川 林 範昭
草刈の最中草の名問はれけり 西畑 敦子
不要不急の百円ショップ梅雨最中 尾崎 晶子
子に習ひ墓へ手をふる生身魂 井上 淳子
身の内の翳り這ひ出る熱帯夜 大倉 祥男
今月の作品鑑賞
山尾玉藻
虫干のもう振ることのなき袂 蘭上かず子
「虫干」の品の中に、昔作者が何度か袖を通した振袖があったのだろう。それをお嬢さんに譲ったものの、お嬢さんも早その振袖を着ることもなく、作者の手元に帰ってきたのだろうか。長い袂を眺め、娘の頃にそれ振ってちょっと科をつくったことなども懐かしく思い返しているのだろう。「もう振ることのなき袂」の表現が、過ぎ去った時間とその折々の思いを語っている。
をとがひに日の斑張り付く噴井かな 今澤 淑子
清水が湧き続く井戸を覗き込んでいる人を、傍らから写生する眼が静かに高揚している。井戸の水へ疎らな日差しが降り込み、それが覗きこむ「をとがひ」へしっかりと反射している。その情景を「映ゆ」とは詠まずに「張り付く」と捉えたのは、井戸の深さと暗さ、水の清らかさと静けさ、そしてこの井戸が知っている時の流れを、しっかりと顎の日の斑に感じているからだろう。
鵺塚へ波音寄する旱星 小林 成子
一読、私は芦屋浜を思った。「鵺」とは伝説上の怪物である。昔、芦屋の浜に辿り着いたとされるその塚があるのだが、なんの変哲もない石だ。しかし「鵺塚」と刻まれているだけで不気味である。「旱星」の乾いた光の下で「波音」が鵺を呼び覚ますようにひびいている。
蹲にきてふためける黒揚羽 湯谷 良
「蹲」に来るまではいかにも優雅に飛んでいた「黒揚羽」だったが、蹲の辺りで急に慌ただしくなった様子である。蝶は体温調節の為に水を飲みそれを尿として排泄すると聞いたことがあり、蹲の水にきたのもそんな理由からだろうか。だがそれは詩とは関りないことで、読み手としては水面に映える蝶のふためきぶりをしばし楽しめばよいのだ。
杉の穂を拾ふ折目の夏袴 坂口夫佐子
神杉の下を歩いていた宮司が、そこに散っていた「杉の穂」を拾った景であろうか。それを眼にした作者はなかなか良い景だと感じたらしく、宮司の「夏袴」の折目正しい様子も見逃さなかった。
おはぐろの疑宝珠つかんで風遣りぬ 西村 節子
「おはぐろ蜻蛉」は静かに居る時は翅を直立させるが、この羽黒蜻蛉は風に吹かれまいと翅を平行に畳み、懸命に耐えていたのだろう。それにしても、丸くすべすべの「擬宝珠」をあの細い脚で摑み続けるのは大変だろう。けなげなことだ。
長靴を脱ぐはやくかい心太 鍋谷 史郎
作者には「長靴」はどうも似合いそうもなく、他の人物だろう。屋内から「心太」を勧める声がして、長靴を脱ごうとしているのだが、汗ばんだ足がなかなか抜けず難儀している様子。心太の為に長靴を苦労して脱ぐという行為がそこはかとなく可笑しい。
汗の子より逃ぐるよ団子虫の足 山田美恵子
別に「汗の子」でなくて子供より逃げる「団子虫」でもよさそうだが、否そうではない。「汗」の一字が団子虫まで汗をかきかき必死で逃げている様を想像させ、この季語は絶対なのである。団子虫のブラシのような足が見えそうで見えず、見えなさそうで見える、そんな愉快な一句である。
夏安居の雨粒すべる十賊叢 松山 直美
「夏安居」の時期、僧侶たちは遊行に出ず寺内で静かに修行を重ねる。この期間に寺院を訪ねると、信仰心の薄い私でも堂内で禅を組む僧侶の静かな息遣いなどを意識する。雨後、雨粒がゆっくりと流れる真みどりの木賊は美しく、その直ぐなる様子に僧侶たちのひたすらな修行をも思うことだろう。
金魚屋のむはつと温き出入口 山路 一夢
冷房の効く金魚屋の水槽に色々な金魚が涼やかに泳いでいる。暫くその涼気を楽しんだ作者は、店をあとにしようと扉に近づいた時、えっと驚いた。思えばその扉は金魚屋の「出入口」であるが、同時に日盛りへの出入り口でもある。涼気と熱気が入り混じる生温い空気感を「むはつと温き」と的確に表していて、それが読み手にもむわっと伝わってくる。
ぐらぐらの橋の渡れる泉川 林 範昭
「ぐらぐらの橋」が渡されている所から、今ではこの「泉川」は余り注目されていないようだ。泉が流れ出て川となっているのが「泉川」であり、川の源泉の一層の清浄さや静謐さが偲ばれる。「ぐらぐら」の生の言葉がしんと活きている。
草刈の最中草の名問はれけり 西畑 敦子
大汗をかきながら「草刈」に奮闘する真っ只中、あろうことか通りすがりの人に草の名を問われたのだ。これほど厄介なことはないだろう。しかしそこは植物好きの作者、手を止めて丁寧に対応したに違いない。
不要不急の百円ショップ梅雨最中 尾崎 晶子
「百円ショップ」には安価で多種多様の品が揃っていて、今や庶民には必要不可欠な場所である。たとえ「不要不急」の外出は控えるようにと言われても、「梅雨最中」であっても、出かねばならない時は出かけるのが百円ショップ、必要で火急を解決してくれるのが百円ショップなのだ。
子に習ひ墓へ手をふる生身魂 井上 淳子
家族とお盆の掃苔に訪れた「生身魂」と呼ぶべき齢の人物を詠んだ一句。墓参を終えて帰り際、連れていた子が墓石に向かってバイバイと手を振った。するとそれに釣られて老人も手を振ったという微笑ましさが嬉しい。その上で、作者自身が自分を「生身魂」と意識して詠んだと解すると、一層ほのぼのとした味が増すだろう。
夕暮といふ寂しさの昼寝覚 野澤 あき
作者は昼寝から目覚め、辺りが暮れ始めているのに少し驚いている。そして五感がまだ覚め切らないぼんやりとした意識の中で、世間が自分を夕闇に置き去りにしていったような感じがして、ふっと寂しさを覚えているのだ。