2020.3月
主宰句
春遠からじ円グラフ棒グラフ
雪解風吾のみ知らざる吾の匂
魚は氷に上り摩耶は妊れる
虫出しの雷とぢこめし三面鏡
琅玕のちぢに雫す節替り
松羽目の裾へまろびし年の豆
春ごとや白鳥遠く羽搏ちたる
水音は母が呼ぶかに夕末黒え
夕末黒人影ややに傾ぎ立つ
亀鳴くとかくり頷く木偶人形
巻頭15句
山尾玉藻推薦
花札の花と散らばる冬座敷 蘭定かず子
まろびきて真砂広ぐる玉霰 根本ひろ子
猪鍋ツアー後部座席を女占め 小林 成子
蠟梅にひらく一念雲低し 湯谷 良
星凍つるメタセコイアの凍の上 坂口夫佐子
晴れきつて抜き差しならぬ石榴の実 今澤 淑子
日の射して影の膨るる枯葎 松山 直美
酔つぱらいにからまれてゐる大枯木 藤田 素子
一陽来復太蔓垂るるへちま棚 松井 倫子
枯蓮振り向き癖のつきゐたる 大倉 祥男
積んである武蔵全集山眠る 大東由美子
下張りに嘉永なる文字日脚伸ぶ 五島 節子
膝も杖も緩みてきたる暖房車 尾崎 晶子
沖涛のことごとく立つ冬囲 成光 茂
隠沼のさざ波立つるいたち罠 藤本千鶴子
今月の作品鑑賞
山尾玉藻
花札の花と散らばる冬座敷 蘭定かず子
障子や襖でぴたりと封じられた静かな空間に「花札の花と散らばる」とは、なんと鮮やかな世界を描いたものか。しかもその裏に潜む遊びの後の侘しさまでを漂わせている。真の客観写生句とは、写し出された景の背景に必ず作者のこころの動きが示されているものを指す。
まろびきて砂子広ぐる玉霰 根本ひろ子
道理から言えば「玉霰」が砂子の上をまろび広がったというのが正しいが、作者に砂子が広がったと思わせるほど突然降りだした霰の勢いがとても激しかったのであろう。その点で霰の真の在りようをついたと言える。
猪鍋ツアー後部座席を女占め 小林 成子
今の時代、歳を重ねるにつれ男性より女性の方が逞しくなる。美味いものツアーのバスの後部座席だろうか、其処を占めた女性たちのお喋りは尽きないだろうし、目的が「猪鍋」だけに恐れ入る。男性方は鳴りをひそめる一方である。
臘梅にひらく一念雲低し 湯谷 良
「臘梅」は芳香を漂わせる花であるにも関わらず、陽光の似合わぬ花のように感じる。それは花弁が臘のような鈍い光り方をしているからであろう。だからこそ「ひらく一念」と感じたのであろうし、いつにもまして「雲低し」を作者に意識させたのだろう。
星凍つるメタセコイアの凍の上 坂口夫佐子
この時節「メタセコイア」は落葉し尽くし、その大きな三角錐形は透明感を湛え、美しくも非常に寒々しい。そこで「メタセコイアの上」と星の位置を絞り切り、しかも意識的に「凍」の韻を踏むことを忘れず、星の凍てつき振りを非常に際立たせている。
晴れきつて抜き差しならぬ石榴の実 今澤 淑子
「抜き差しならぬ石榴の実」から、これ以上熟れると実石榴に亀裂が走るのではなかろうかと思えるほど、赤く熟れ切った実の様子が想像される。しかも晴天である。中七までの措辞が非常に張りつめていて、読み手にその後に実石榴が裂ける瞬時が見えるようでもある。真の意味での卓越した表現とは、掲句のように難解でしかも巧みそうに感じる言葉は一切使わず、情景を的確に想像させる解りやすい客観的、感性的文体を指して言うのであろう。
日の射して影の膨るる枯葎 松山 直美
葎が枯れ尽くし、枯草が枯草の上に寒々しい影を落としている。今、葎に急に日が射し、作者は葎が不意に膨らんだような錯覚を覚えたのだが、この感覚を葎にではなくその影に託して成功している。こんな風に表現にワンクッション置いたのは、作者が「影」の語には平板ではない微妙なニュアンスがあることを承知しているからであろう。
酔つぱらいにからまれてゐる大枯木 藤田 素子
「お前、なんでこんな所に突っ立ってんねん」などと絡んでいる「酔つぱらい」の醜態が、逆に「枯木」の威風を思わせる点では成功している。しかしこの程度の軽妙さを諧謔と位置付けるかどうかが問題であろう。私はこの作者の俳句的センスを以前から大いに認めているのだが、もう少し深い所で俳句を詠むべきであると思っている。俳句にもっと深入りし、もっと苦しむべきではなかろうか。そうすれば俳句はもっと楽しくなる。
一陽来復太蔓垂るるへちま棚 松井 倫子
「一陽来復」には辺りの気配が陰から陽へと移り始めたと感じるほのぼのとしたこころの動きがある。作者は「へちま棚」の「蔓」にそれを感じているのだがそれは何故か。蔓を見て、以前其処に見た糸瓜の飄とした貌を面白く思い出しているからである。
枯蓮振り向き癖のつきゐたる 大倉 祥男
枯れ切った蓮の葉や実は寒風に逆らうことも出来ず、風が起つたびに煽られっぱなしなのだろう。風の吹く度に作者の方を向く葉や実を捉えて、「振り向き癖」とはややひねり気味の表現だが、そこから生まれる慎みある可笑しみがこの作者の持ち味である。
積んである武蔵全集山眠る 大東由美子
積み上げてあるのは吉川英治著『宮本武蔵』の六巻であろう。一介の野人が澄明な武道の境地へ至るまでの骨太な内容の書だが、「山眠る」は鏡のような寂とした境地に達した武蔵そのものの姿と思えてきて、この取り合わせは思いのほか深い味を生んでいる。
下張りに嘉永なる文字日脚伸ぶ 五島 節子
「嘉永」の時代、黒船来航、日米和親条約等、日本は開国へと大きな変革を求められ始め、国内は何かと慌ただしくなった。襖か屏風の「下張り」に記されるこの元号を目にした作者も、当時の国の情勢に思いを色々巡らせたことだろう。「日脚伸ぶ」の長閑さが、逆にこの時代の日本の困惑ぶりをじっくりと想像させることとなった。
膝も杖も緩みてきたる暖房車 尾崎 晶子
列車内で向かい側のシートに座す人物をじっと観察する目が働いた一句。列車内では天井からばかりでなく足元からも温風が吹き出てくるので、「膝も杖も緩み」がちとなる。足元が温まると次に眠気を催し、杖が倒れたり膝頭に締りがなくなったりするのであろう。俳人は何事も見逃さないので、ご用心ご用心、である。
沖涛のことごとく立つ冬囲 成光 茂
例えば奥能登のような日本海に面した集落の一景。この「冬囲」は烈風の運ぶ激しい雪と涛しぶきから家々を守る竹の垣根か。「沖涛のことごとく立つ」の厳しい措辞より風雪の激しさが偲ばれ、垣内の人々の息をひそめるような暮らしぶりも想像される。
隠沼にさざなみ立つるいたち罠 藤本千鶴子
近くに「いたち罠」が仕掛けられ、普段は静寂の沼に小さな波が立ち始め、作者にはいたち罠に沼がいささか反応したように思えたのだ。読み手にも、沼と罠との偶然の出会いに必然の関りがあるように思えてくる。獅子座作品<をしどりのしづかに雌のあとくぐる>の、鴛鴦ならばこそと見詰める愛ある視線にも注目する。