2020.5月
主宰句
今春二句
その巨きマスクなんぞと亀の鳴く
囀の中の校門ひた塞ぐ
蟇出づる鳥獣戯画の世を遠く
指笛の真直ぐに裂きし春愁
野の匂ひする子連れきし御開帳
抽斗に押し込みたきは春の風邪
水天のそよげば菫草もまた
この坂の天王寺さんへ伸ぶ日永
桜蕊松の根方ににぎははし
杏咲く谿に川音あればこそ
巻頭15句
山尾玉藻推薦
少年に紫紺の夜空卒業す 蘭定かず子
春障子魁夷の馬を閉ざしゐし 湯谷 良
啓蟄やガラス張りなるFM局 坂口夫佐子
旧正の袂ひろぐる翁舞 小林 成子
すつぽんをはんぱにかまふ春の風邪 大東由美子
引く波に岩照り返す帰雁かな 山田美恵子
水餅の底に沈んでゐし記憶 大倉 祥男
水分の光としぶく花はこべ 河﨑 尚子
風花の追ひかけてゐる風の影 五島 節子
ぶらんこの靴祝祭のごと飛びぬ 辻 佳与子
走り根の交はり逸るる雨水かな 松井 倫子
日に凭れ鬼が出を待つ節分会 西村 節子
雪焼けの紅き口紅素直なり 髙松由利子
雛段を組みゆく夫の老眼鏡 尾崎 晶子
春荒や木守朱欒のまだ太り 今澤 淑子
今月の作品鑑賞
山尾玉藻
少年に紫紺の夜空卒業す 蘭定かず子
「紫紺」とは紺色を帯びた暗めの紫色で、明るい色ではなくやや翳りある複雑な色を指す。少年にとって昼間の明るい空ではない「夜空」であるからこそ、この「紫紺」が生きている。例えば少年の心に芽生え始めた未来への薄ぼんやりとした不安なども紫紺色から窺い知れるだろう。佳句である。
春障子魁夷の馬を閉ざしゐし 湯谷 良
「魁夷の馬」と言われれば、誰もが東山魁夷の描いた万緑の中で池の面に映える白馬を思い浮かべるに違いない。作者は「春障子」を開いた瞬間、その緑と白のコントラストのまばゆい絵に春爛漫を実感したに違いない。これは「春障子」の一句、冬の「障子」ではこの絵は生きない。
啓蟄やガラス張りなるFM局 坂口夫佐子
通りがかったサテライトスタジオの嘱目詠だろう。「ガラス張り」の中のパーソナリティーや機材類と、自分が立っている現実の世界とに少なからず隔たりを覚えた作者であろう。「啓蟄」の季語が微妙な味付けをしている。
旧正の袂ひろぐる翁舞 小林 成子
民俗芸能の「翁舞」は能楽の原点と言われ、近隣では奈良豆比古(つひこ)神社の秋の例祭に翁が人々の安寧を願って舞う。この時は「旧正」を祝い特別に舞われたものだろう。篝火明りに翁の煌びやかな衣が映え、「袂ひろぐる」の大らかな所作が一層の眩しさを放つことだろう。旧正月が目出度く更けていく。
すつぽんをはんぱにかまふ春の風邪 大東由美子
水槽の「すつぽん」をガラス越しに指で突っついていた作者であろう。しかしすっぽんが漸く反応し始めた頃には、からかうのが面倒になった様子。「はんぱにかまふ」の措辞に「春の風邪」の気怠さが思われるだろう。すっぽんにとっては甚だ迷惑な話である。
引く波に岩照り返す帰雁かな 山田美恵子
「岩」を打って戻る波に岩が輝き返す景に、自然と自然の呼応を感じる作者。そしてその気息に上空を帰る「雁」も必ず答えているだろうと、作者の思いは広がるばかりである。
水餅の底に沈んでゐし記憶 大倉 祥男
幼い頃、我が家の貧乏を憚っていた所為か、水甕の中に手を入れ餅を探る行為が嫌いで、殊に父がそれをすると情けなくて目を逸らした。これは私の場合の記憶であり、読み手はそれぞれ回顧して掲句を鑑賞して良いだろう。しかし「沈んでゐし」との措辞より、誰もが水の冷たさと暗さを思い出すに違いない。俳句とはこの共通体験をよすがとする文芸であり、その点からも観念語「記憶」はさして気にならない。
水分の光としぶく花はこべ 河﨑 尚子
「花はこべ」からこの「水分」はさほど高地のものではないと思われるが、「光としぶく」景はやはり清浄そのものだろう。それを浴びるのが身近な花はこべであるのが嬉しい。
風花を追ひかけてゐる風の影 五島 節子
今作者には、吹かれてゆく「風花」を次の風が追いかけ、それをまた次の風が追いかけているのが見えている。しかも白々とした風花の合間の風に影まで見てとっている。これがものを見据える力である。風花の真実とは、風が雪を走らせている所にあるのだが、雪が風を走らせている所にもあることが知れる。ものを見ることは思いがけぬ発見に繋がる。
ぶらんこの靴祝祭のごと飛びぬ 辻 佳与子
「ぶらんこの靴」が勢いですっ飛んだとする発想は数多あるが、「祝祭のごと飛びぬ」の大胆な詠みぶりは初出であろう。無論作者のこころの在りようが大きく働いた把握であるが、高々と煌き飛ぶ靴の躍動をまざと体感させる力は、間違いなく「祝祭」という迷いのない一語の働きにある。
走り根の交はり逸るる雨水かな 松井 倫子
この作者もものを見ることに努める。「走り根」の真は「交はる」点にあるのではなく、ゆったりと伸びる点にあることを再認識させる一句。春の初動を思わせる「雨水」が効果的。
日に凭れ鬼が出を待つ節分会 西村 節子
「節分会」の境内の景。豆撒きが始まるまで肉襦袢をきた鬼役が日向の壁か樹に凭れているのだろうが、それを「日に凭れ」と大らかに述べた点が好ましく、鬼に親しみを覚える。
雪焼けの紅き口紅素直なり 髙松由利子
下五「素直なり」で普段は余り素直ではない若い女性が思われる。「紅き口紅」をぬった「雪焼け」のその人が余りにも従順で、少し拍子抜けした作者の顔を想像するのも楽しい。
雛段を組みゆく夫の老眼鏡 尾崎 晶子
歳を重ねると女性は「雛壇」を組んで雛を飾るのが億劫となる。そんな作者に痺れを切らしたご主人が自ら雛壇を組み始めた様子。同時作<けふこそと夫の出し来し雛の箱>もあり、子供たちが幼かった頃の雛明りの日々を懐かしむご主人の胸中を偲んでこころ温まると共に、「老眼鏡」が切なくもある。
柑橘類の中で大きさや色合いから「朱欒」は大様な雰囲気を湛えている。「木守り」として空に残された朱欒を見上げ、まだ大きくなりそうだと感じるのもその所為だろう。朱欒にとって「春荒」など取り立てて言うことでもないのだろうが。