2020.6月

 

主宰句   

 

葱坊主皆ちぎられてありし朝

 

五月くる樹より草より鳥の発ち

 

五月五日書棚にならぶ水滸伝

 

衣更へて山並に手の届きさう

 

瀧音のつつしみゐたる夕祓

 

水無月やどの樹ともなく風好きで

 

蔓は樹に絡み存ふ梅雨の入

 

梅雨晴間根こそぎてふ根草に座し

 

赤松に丈ありてこそ梅雨の明

 

厄神へ噴水の神立ち上がる

 

巻頭15句

            山尾玉藻推薦                

 

春の昼タイル地を水霽れてゆく      蘭定かず子

 

対岸と張り合ふ風の雪柳         山田美恵子

 

初蝶の影のたちまち二つなる       尾崎 晶子

 

朝東風へ光の音を生む毬藻        大内 鉄幹

 

春雷や味噌溶く湯気をかんばせに     坂口夫佐子

 

池の面を巡つてゐたる春落葉       小林 成子

 

そこらまで飛んでは春の鷗かな      永井 喬太

 

蛇出でて観音堂の片びらき        するきいつこ

 

涅槃図の大河と垂るる堂の闇       大谷美根子

 

十字架に雲のふれゆく牧開        松井 倫子

 

彼岸西風草に巻きつく牛の舌       湯谷  良

 

恋猫となるため日がな眠りをり      松山 直美

 

枝くはへなほせし鴉つちふれる      西村 節子

 

真つ直ぐにあらず一筋蜷の道       西畑 敦子

 

涅槃図を見てきし夫の独り言       井上 淳子

 

今月の作品鑑賞

            山尾玉藻         

春の昼タイル地を水霽れてゆく    蘭定かず子

 迂闊だった。私はこれまでこのような景が詩に繋がるとは考えもしなかった。風呂場を掃除の折などで、タイル地を濡らしていた水がゆっくり退く景を切り取った点、それを「水霽れてゆく」と詩的に捉えた点、しかも「春の昼」の駘蕩感を豊かなものにしている点など、感服するばかりである。なにも特別な対象に触手を動かすばかりが俳人ではない。日常の取るに足らぬ事実を見過ごすことなく、それを詩に高めるのが本来の俳人の務めと技なのだ、と改めて考えさせられた。

  対岸と張り合ふ風の雪柳       山田美恵子

 作者の立つ岸辺で「雪柳」が風に煽られ、川を挟んだ「対岸」でも同じように雪柳が大きく揺れている。そんな情景を見て、作者にはまるで雪柳同士が揺れを競い合っているように感じられたのだ。「張り合う」という愉快な措辞は、雪柳のごまかしようのない明るさに自ずと触発されて得た表現なのだろう。

 初蝶の影のたちまち二つなる     尾崎 晶子

恐らく「初蝶」は最初から二匹で、少し隔たって舞っていたのだろう。作者は初蝶を見つけた嬉しさの余り、連れの蝶を見落としていたにちがいない。「たちまち二つなる」のたちまちに、作者の全く予期していなかった喜びようが伺い知れ、読む者も嬉しくなる。

 朝東風へ光の音を生む毬藻      大内 鉄幹

昔、北海道旅行の土産に「毬藻」を買い、子供たちの観察を兼ねて六年ほど育てた経験がある。カーテン越しの陽光に照り返す毬藻を、この動かない球体にも確かな命が宿っているのだと飽きずに眺めていたものだ。さて掲句、「光の音を生む」とはかなり感覚的である。しかし常に静かで不動の毬藻であるが故に、揺れる日差しに応える音なき音声が作者には聞こえたに違いない。今、遠い日の毬藻を思い出している。

 池の面を巡つていたる春落葉     小林 成子

春になると椎、樫、樟などは盛んに落葉する。そんな「春落葉」が「池の面」をゆっくりと巡っている景だが、これを吹く風の所為だとするのは全く常識的で風雅に欠ける。風の有る無しは別問題。「巡る」の表現には、春落葉が温んできた水を喜び、その喜びを水と共有しているようだとの作者の思いが籠められている。「春落葉」でなければならぬ一句である。

 そこらまで飛んでは春の鷗かな    永井 喬太

 これまで大方は日向に並びじっとしていた鷗たちが、その辺をちょっと飛んでみるなどの動きを見せるようになり、その様子に作者は春を実感している。「そこらまで」とは一見曖昧な表現のようだが、鷗たちもどことなく春を喜んでいる気配であることを、巧まずして言い得ている表現である。

 蛇出でて観音堂の片びらき      するきいつこ

「蛇」が穴から出てきた事実と「観音堂」の扉が「片びらき」となっている事実に全く関連性はない。しかし、この二つが並べられることで不思議な真実味が生まれ、読む者の胸中も何やら触発され、ざわつくから不思議である。二句一章が生む力とは、偶然を必然へと繋ぐ内なる力のこと。

 涅槃図の大河と垂るる堂の闇     大谷美根子

 涅槃図を見てきし夫の独り言     井上 淳子

「涅槃図」を詠んだ二句を並べて鑑賞したい。

一句目、堂内の暗がりに眼が慣れてきた作者の、「涅槃図」を認識した時の驚きが半端ではなかったことが知れる。それは涅槃図の巨大さを喩えて「大河と垂るる」と言い放った点から十分に想像される。

二句目、たとえ信仰心はなくとも、「涅槃図」を見た人は何かしらこころが動き、何かと感じやすい境地となるものだ。作者の御主人も身にしみて何かを感じておられる様子である。そんな胸中から自然に零れでたような「独り言」であろう。

 春雷や味噌溶く湯気をかんばせに   坂口夫佐子

湯立った出汁に溶く味噌の香に、しみじみ日本人で良かったと感じるのは私ばかりではないだろう。しかし作者はそれだけではなく、湯気で顔を湿らす喜びを体感で伝えている。折も折、ひと鳴りした「春の雷」に一層こころ弾ませたに違いない。

 十字架に雲のふれゆく牧開      松井 倫子

牧場近くに教会がある景なので、外国詠かもしれない。「牧開」の今日、広大な牧場の上をゆっくり過ぎて行った雲が、教会の十字架にも触れて流れて行く。これから辺りが春一色となってゆく兆しに溢れる一句である。

 彼岸西風草に巻きつく牛の舌     湯谷  良

 ももいろの「牛の舌」はぶ厚く、思い切り伸ばすと驚くほど長い。草ぐさがその粘り気のある舌に巻き付かれていく様子に、眼を見張る作者であろう。インパクトを孕みつつ、穏やかで柔らかな「彼岸西風」が牛と作者を包み込む一句。

 恋猫となるため日がな眠りをり    松山 直美

夜分ともなると必ず出ていく猫が、昼間は眠ってばかりいる。そんな様子を見て、「恋の季節だから仕方ないな」と半ばあきらめ顔の作者だろう。「恋猫となるため」のストレートな措辞に共感する。

 枝くはへなほせし鴉つちふれる    西村 節子

「鴉」にとって甚だ気の毒な話だが、何をしても、何に対して鳴いても、鴉は必ず疎まれる。営巣の為の「枝」を咥え直しても好感を持たれず、ついでに「つちふれる」とまで嘆かれる。こういった句をベタ即きの良さがあると言う。

 真つ直ぐにあらず一筋蜷の道     西畑 敦子

「蜷の道」を目で辿ると決して平坦に伸びておらず、小さな蜷にもそれなりの思いがあり、何らかの事情を抱えて進んでいることが知れる。その上で掲句がこころに残るのは、「一筋」の語に蜷の懸命さが滲み出ているからだろう。